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『なぜ「あの場所」は犯罪を引き寄せるのか』 [☆☆]

・日本の防犯対策はと言えば、やれ不審者に注意しろだの、やれ動機を解明しろだのと、旧態依然としている。一方、防犯対策が進んでいる欧米諸国では、こうした「人」に注目する方法は採られていない。「不審者」も「動機」も見ただけではわからないからだ。

・欧米で採られているのは「場所」に注目する方法――これなら、見ただけで危険性を判断できる。この発想は「犯罪機会論」と呼ばれている。場所に潜む「機会」が犯罪を誘発するというわけだ。

・犯罪機会論の主張は、いたってシンプルである。「場所」の景色を見て、入りやすく見えにくければ警戒せよ、というものだ。

・犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。

・犯罪の機会とは何か。それは、犯罪が成功しそうな雰囲気のことだ。

・「不審者」がいるのは日本だけ。諸外国では「不審者」という言葉は使われていない。日本のように、防犯の分野に「人」に注目する犯罪原因論を持ち込んでいないからだ。

・必然的に出てくる対策は、防犯ブザーや、「大声で助けを呼ぶ」「走って逃げる」といった護身術となる。しかし、これらはすべて襲われた後のことであり、犯罪はすでに始まっている。つまり、実際には防犯(予防)ではないのだ。危機管理の言葉を使えば「クライシス管理」である。

・真の予防は「リスク管理」と呼ばれている。犯罪者に近づかれないためにはどうすればいいか――これこそが「リスク管理」であり、予防(防犯)なのである。

・「知らない人」というのも、子供にとっては不明瞭な言葉だ。子供の世界では、知らない人と道端で二言三言、言葉を交わすだけで、その人は「知っている人」になる。ましてや、数日前に公園で見かけた人は、すでに「知っている人」である。

・誰が犯罪を企てているかは見ただけではわからない。言い換えれば、「人」に注目している限り犯罪は予測できない。

・犯罪を予測するためには、絶対にだまされないものにすがるしかない。それが「景色」である。「人」はウソをつくが、「景色」はウソをつかない。

・実は、「歩道橋の上」というのは、犯罪者が大好きな場所である。

・実際の検挙率は一割にも満たないことになる。これほどまでに多くの犯罪者が捕まらないのは、ほとんどの犯罪者が、犯罪が成功しそうなときにしか犯罪を行なわないからだ。

・新幹線が開業したり橋が架かることでも「入りやすい場所」が生まれる。青森八戸市では、新幹線開業の前年から翌年にかけて、侵入盗の件数が1.6倍になり、徳島では、明石海峡大橋開通以降の5年間で、犯罪発生率が1.5倍に増加した。

・捕まってニュースになるのは、犯罪が失敗しそうな場所でも犯罪をしてしまう、ごく一部の犯罪者である。

・侵入するかどうかの判断基準は、見つかったときに言い訳ができるかどうかだ。

監視カメラが怖いのは、犯行が発覚するかもしれないとビクビクしている犯罪者だけだ。犯行は発覚しないと信じ切っている場合には、監視カメラに自分の顔が捕らえられたとしても、犯罪の発見がない以上、監視カメラの録画映像が見られることもないので、監視カメラは抑止力にならない。

・交番の役割は、犯人の逮捕(=犯罪原因論)というよりもむしろ地域の支援(=犯罪機会論)である。

・子供への聞き取りにおいて、答えたくなければ答えなくてもいいとした場合でも大差ない。記憶を想起させるだけで、被害体験を「忘れる権利」が侵害されるからだ。

・「何となく」から「なぜならば」へと科学的洞察力を向上させるのが、犯罪機会論のキーワードなのだ。

・「学びのピラミッド」という学習理論によると、学習内容の記憶への定着率は、読んだだけでは10%にすぎないが、実際に自分でやってみると75%になり、他人に教えれば90%にまで高まるという。

・かつて新聞紙上で、「地域安全マップは被害者を傷つける。危ないと知っていて、どうしてそんなところに行ったのかと責める」という批判が紹介されたことがあった。注意を怠った者を責めることになるから注意そのものをしないとは、なんとも無責任な話だ。

・危険なことは危険だとしっかり教える安全教育と、被害に遭ったときの心のケアは別次元の問題だ。心のケアを理由に安全教育を否定するのは、本末転倒である。

・幼児を一人で買い物に出かけさせ、その苦労する姿を隠し撮りするテレビ番組も20年以上続いている。こうしたことも、西洋諸国では児童虐待と見なされる。

・制度を変えるのは意識であり、意識のないところに制度は生まれない。やはり「防犯はタダ」という意識が背景にあると思えてならない。

・「うち」世界にいるのは身内(うち)なので多くのことが内々(うちうち)で済まされるのに対し、「よそ」世界にいるのは「よそ」者なので互いに「よそよそ」しい態度が示される。

・「中国人一人は日本人十人に値するかもしれないが、日本人百人は中国人千人に相当する」と新聞紙上で対比されたこともあった。中国人の個人主義と日本人の集団主義を誇張したものではあるが、そうした特性があることは否めない。

・諸外国に比べ日本では個人主義的な意識が十分に確立していない。むしろ、個人が「うち」集団に埋没している(=一体化している)のが現状だ。そのため社会の中に日本的な「うち」と「よそ」が混在し、社会の仕組みがわかりにくくなっている。

・日本人が携帯電話の車内通話を不快に思うのは、車内を「うち」世界と感じているからだ。みなさんは、自分の部屋に誰かを招き入れたとき、その人が携帯電話で別の人と話し始めたら、どう感じるだろうか。「なんて失礼な人だ」と思わないだろうか。もし思うのなら、それが車内通話に対する不快感の正体である。

・今でも、日本人が「権利と義務」を意識するのは「よそ」世界にいるときであり、「うち」世界では、相変わらず「甘えと義理」(=タテ型・交換型ルール)がまかり通っている。

・公共の場で無防備になるのは、そこを「うち」世界だと思っているからではないか。自分の部屋にいるのと同じ感覚で公共の場にいるから、警戒を怠るのではないか。

・「天高く馬肥ゆる秋」という中国の防犯標語も、日本に伝わると心地よい言葉になった。この言葉、元々は北方民族が夏の放牧で肥えた蒙古馬に乗って秋の収穫期に襲来し、略奪することへの警戒を促すものだった。

・子供たちが引き起こす問題は規範意識の低下が原因、というのが常識になっている。しかし、同調プレッシャーが強い(=規範意識が高い)からこそ、集団メンバーの誰一人として「それはおかしい」「やめたほうがいい」と声を上げられず、いじめも集団万引きもエスカレートするのである。






タグ:小宮信夫
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