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『数学する身体』 [☆☆]

・「数」は、人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である。

・「自然数(natural number)」という言葉があるが、それは決してあらかじめどこかに「自然に」存在しているわけではない。「自然」と呼ばれるのは、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されているからである。

・人間は少数の物については、その個数を瞬時に把握する能力を持っている。二個のものは二個だとただちにわかる。心理学の世界で「スービタイゼーション(subitization)」と呼ばれるこの能力の背景にあるメカニズムは未だ完全には解明されていない。

・近年の認知神経科学の研究によると、三個以下の物の個数を把握するときには、それ以上の個数を把握するときとは違う、固有のメカニズムが働いているらしい。

・人間は何らかの方法で、三個以下の物については、数えなくてもその個数を、正確に認識できるのだ。ところが、四個をあたりを境にして、この能力は消えていく。見ただけで個数を把握することは難しくなり、数える必要が出てくるのである。

・数字のデザインは文明ごとに多様だが、1を表す記号を二個あるいは三個並べて2や3を表すのが基本である。それならば、4や5も、同じ記号を四個並べたり五個並べたりすればよいかというと、そうはいかない。人間の認知能力の限界のために、同じ記号が四個や五個並んでいることを、正確に把握すること自体が一苦労だからである。そのままでは、道具としての使い勝手が悪い。

・数学科に入りたての頃、飲み会に参加して居酒屋下駄箱が素数番から埋まっていくのに驚いたことがある。

・私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、「近代の西欧数学」なのである。

・はじめは直観を裏切る対象でも、使っているうちに次第に存在感を帯び、意味とその有用性がわかるようになってくる。そうして少しずつ、数学世界が広がっていく。

・人間の長い進化の来歴の中で、「数える」必要に迫られることはごく最近までなかっただろう。だからこそ、いざその必要に迫られたときには、それまでモノを掴むために使っていた指を「転用」するほかなかったのだ。

・江戸時代の日本には、「和算」という独自の数学文化があった。そこでは、まっしぐらに抽象化、普遍化に向かわずに、特殊な設定下の具体的な例を数多く身につけることを通して、背景で働く原理を少しずつ「悟っていく」ような学習法、教授法が重視されたという。

大学の図書館に通い詰めながら、そのままそこの文化の流れに身を任せ、「クラゲのようにポカポカ浮いて」さえいれば、自分の目的地に運んでもらえるのではないかという気持ちにもなった。

・「一世のうち秀逸三五あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり」と、芭蕉はかつて、門人の凡兆に語っという。本当によい句というのは生涯に三句五句あればいい方で、十句もあれば名人だと言うのである。

・人を相手に学者になるのは易いが学問を相手に学者になるのは大変な事です。

・自然は、人間やコンピュータによる「計算」とは違う方法で、しかもそれよりも遥かに効率的な方法で、同じ「結果」を導出してしまう場合がある。

・自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している。

・例えば、ボールを投げたときの軌道を計算したかったとしよう。このとき、どんなに緻密なシミュレーションをするよりも、実際にボールを投げてしまう方が、効率よく軌道を「導出」できる。

・かぼちゃの種子の生成力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作られないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。

・自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。

・どれだけ偉大な思想であろうと、それを伝える人がいなければ失われる。

・人間が生み出す数学の道具は、時代や場所とともにその姿を変える。道具が変われば、それを用いる数学者の行為、さらにはその行為が生み出す「風景」も変わる。

・玉ねぎがただの皮の集まりだったとしても、依然としてそれを生んだ種子の力は、「剥ぎ取る」ことのできない不思議のままだ。



数学する身体

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  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/10/19
  • メディア: Kindle版



タグ:森田真生
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