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『教養としてのプロレス』 [☆☆]

・八百長という意味で使うのではなくガチな感情をどうビジネスに使えるかってことですよね、ボクらの考えるプロレスっていうのは。

・「この世界の説明できないことを論理的に明かしていくこと」が科学者だとしたら、「どうしても説明できない不条理なこと」とも隣り合わせなのも実は科学者だ。「あっち側」に急に走る可能性はむしろ我々よりある、とも言えないか。

・「社説」は新聞社を代表して毎日何かを主張し、世の中を諭している。まず常に上から目線。お説教のテーマは問わない。地球の裏側のことにも小言を言う。でも特に問題解決にはならない。そんな「社説」を私は「大御所の師匠だと思えば楽しめる」と常々、提唱している。「ああ、また師匠が何か御大層なことを言ってるぞ」という楽しみ方だ。「おかしさ」を「可笑しさ」に変換すればいちいち腹も立たない。

・その社説師匠が「成人の日」に若者に向けた言葉を送る。やっぱり可笑しかった。

・理想を掲げた「頭でっかちな集団」は歴史上、組織が大きくなればなるほど必ず内部で揉める。内ゲバだ。

・疑うことなくすべて信じたらそれは「オカルト」(最終地点はカルト)に通じてしまうし、信じることをまったくしなくなったらそれは「ニヒリズム」(最終地点は価値と潤いのない世界)に通じてしまう。

・白か黒か、ゼロか百かの世界より、グレーゾーンを許容した見方の方が余裕がある。

・「台本がある」ことをいくら公開していても、今、起きていることや客の前での感情、そしてお客自身のリアクション、これらすべて台本には書けないことである。予測不能で、すべてリアル。

・世間が浮かれている時に裏で何が起きているのか。「裏」の存在にこそ注意を払う。

・昔からプロレスファンは雑誌を「情報が知りたい」という欲求だけでなく、「何をどう語っているか知りたい」という欲求で読んでいた。

・世の中のニュースや情報は「実はオヤジが発信してオヤジが受信しているだけでは?」と思えてくる。意外とそれがマスコミの正体かもしれない。

・普段は「政局より政策を」とか「国民不在の茶番劇」と言って嘆いているが、いざ政局が始まると俄然張り切るのはオヤジジャーナル自身なのだ。

・オヤジジャーナルの動向を見ていると「オヤジに気づかれてしまったエンタメ」もわかる。最近では壇蜜であり『半沢直樹』。オヤジという「ベタ」が気づいたことにより、その現象が加速しピークに向かう。

・そう、壇蜜は「エロい」のではなく「フルい」のだ。それが成分と戦略なのだ。

・われわれ大衆はいい加減なのだ。刻々と変わる感情を刻々と誰かにぶつける。われわれが正義だと言っていることは本当は嫉妬なのかもしれないし、権利だと信じていることはただの欲望かもしれない。

アイドルとは、時代の寵児とは、「引き受ける」ことができる人なのではないかと最近思う。悪意や誤解にいちいち反論できる現代でも、すべて引き受けてみせる。それは度量があるとも言えるし、自分にしか興味がないからとも言える。

・プロレスを見る醍醐味の大きなひとつは「非日常」である。日常の世界にはいない人たち、朝の通勤電車にはいそうもない人たちがそこにいるからこそ、お金を払って人々は駆けつける。

・異形の者への視線は、憧憬もあれば好奇もある。差別心と紙一重。

・差別的な自己に自覚的になる。その前提を自覚する、しないは、生きていくうえで大きい。

・この本で初めて知ったのは笹川良一の社会奉仕活動だ。資産53億円は息子たちには残していない。すべてハンセン病患者の救済と撲滅運動の福祉に使い切って終わった。この事実を知る日本人は少ない。

・怪物は単なる悪党ではない。むろん善人ではない。両方の面を具えているというよりも、見る人によって、どっちともとれるようでなければならない。

・コップ1杯の水を持って運ぶとしたら、たいていの人は七分目ぐらいに水を入れてゆっくり運ぶだろう。しかしプロレスラーとは、水をタプタプに満杯に入れたコップを全力で運ぼうとする人種なのだ。

・正しさしか信じない人からすれば、こぼすとわかっているのに満杯に水を入れたコップを全力で運ぶ人は、まったく無価値だろう。

・ユーモアがウィットつまり「機知」と別物だということは広く知られていない。

・機知は、自分が知的な高みにいると構えたうえで相手なり対象を見下ろして繰り出す、言葉のパロディ(もじり)である。だから機知には、多かれ少なかれ、高慢の気が漂うのである。

・ユーモアにあっては、自分を知性の高みにおくのではなく、徳性の面で高きに至りたいという願望がまずある。しかし高潔の士にはなかなかなりえない。その理想と現実の間のギャップを表現するのが諧謔(ユーモア)という。

・ユーモアとウィット。あえて簡単に言うなら、自分を笑って見せるのがユーモアで、他者をツッコんで笑いを取るのがウィットだろう。

・今の世の中はウィット社会だ。常に誰かがどこかでツッコんでいる、日本中いたるところで上から目線。

・相撲出身の力道山が「しょっぱい=弱い(土俵の塩にまみれる)」という相撲用語をさらにプロレス界で応用し「客を満足させないつまらない試合」という意味で「しょっぱい」を使い出したのだ。

・博打打ちというのは博打を職業としている人間だ。イカサマも含めて必死でやる。なぜ彼らはそんな思いまでして賭場で生活しているのか。それは「そこにしか居場所がないから」なのだ。そういう人を「博打打ち」と呼ぶ。

・賛否両論の議論が巻き起こり、視聴者がスポンサーにクレームするなど、今の「消費者や視聴者という地位に「気づいた」一部の声の大きい人たち」が現れたのもこのドラマあたり。

・20代のときのアメリカでのブレイクぶりは、意外に知られていない。プロレスファンでもどれほど馬場がメジャーの世界で超一流だったかは、細かく知らない。

・送り手側が発信するものを、そのままストレートに受け取ることが正解だとは限らない。見方を変えればいろんな「真実」が見えてくる。

・橋下徹の記者会見を思い出してほしい。とても長い上に、言及する案件も多い。記者は言葉を追っているだけで必死だという。橋下徹の「1人タイムライン」がどんどん流れていくのだ。刻々と話題が流れていきツッコミが溜まっていかない。情報の海に埋没する。

・昭和のプロレスと現在のプロレスの違いはひと言で言えよう。「最強を求めたのが昭和、最高を求めるのが現在」だろう。それは、ファンの気質も含め。

・楽しいプロレスは花火に似ている。観客は「あー」とか「お~」とか、思い思いに声を発して優雅に笑顔で楽しんでいる。

・「人が物を欲しくなる条件」というのがあり、「近い将来もっと盛り上がっているだろう」と思ったら人はそれを買うとのことだった。

・すべてのジャンルはマニアが潰す。



教養としてのプロレス (双葉新書)

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  • 作者: プチ鹿島
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2014/08/06
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