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『「俺は聞いてない!」と怒りだす人たち』 [☆☆]

・明確な指示を伝達せず、意図を汲み取って自発的に動くことを期待するといったコミュニケーションのあり方に致命的な問題があった。

・コミュニケーションギャップを防ぐためのノウハウを盛り込んだ明快なコミュニケーションのスキルが説かれる。しかし、そういったスキルでは問題は解決しない。なぜなら、私たちの気持ちが明快さを嫌うからである。明快なコミュニケーションのためのスキルを知ったところで、それを使う気持ちがない。

・「俺は聞いてない!」と言った側も、報告内容の詳細を追及しないことが多い。内容そのものに強い関心があっての発言というよりも、知らされなかったことにこだわっているのだ。

・職場の人間関係にさえパーソナルなつながりを求めたがるところにも、機能集団になりきれない日本的組織の特徴が端的にあらわれている。

・日本的組織は、職務遂行に徹した機能集団というよりもムラ社会感覚、あるいは擬似家族的感覚で運営される集団となっている。いまだに「ウチの会社」という言い方をする者が非常に多いのも、その証拠といえる。

・何かというと「俺は聞いてない!」とストップをかけたがる上司がいる。スムーズに物事が流れていると自分の存在感が薄れるとでも思っているのか、やたら流れを断ち切ろうとする。

・「俺は聞いてない!」と問い質すという攻撃的な行動にまで出る上司は、自己愛パーソナリティの持ち主といってよいだろう。

・自己愛過剰な人は、尊大なほどに自信たっぷりに見える一方で、尊重されないとキレたりして情緒の不安定さを見せる。

・記憶について、まず強調しておきたいのは、ICレコーダーやビデオカメラのように、現実のやりとりを客観的に保存する機能だと勘違いしてはいけないということだ。

・記憶というのはとても揺らぎやすいものなのだということを肝に銘じて、外部記憶装置を有効に活用するなど、対策を立てるべきだろう。

・「甘え」というのは、個と個が分離しているという冷たい現実を拒絶する心理といえる。相手と自分との間に一体感を感じることと言ってもよい。

・「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客体としての認識ではなく、「私」の、また「われわれ」の会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてである。

・察しのコミュニケーションというのは、保身的な上司にとって、じつに便利な責任逃れの道具となっている。「察して動け」などと言われ、「指示待ち人間」の使えなさが問題視されるため、いちいち言われないと動けないようだと、見捨てられるかもしれないといった不安も脳裏をよぎる。そこでしかたなく察して動くのだが、何か問題が生じると、「俺は聞いてない!」と言ってハシゴを外される。

・作品について論じているのに、ちょっとほめると、「あいつはオレに好意をもっている」ととられ、ちょっとけなすと、「あいつはケシカラン奴だ」とくる。

・評論家・書評者のほうでも、往々にして感情的文句を弄しているのがつねである。「これは気に入った」だの、「著者の問題意識を疑う」だの、「著者はまだ苦労が足りない」とか、「著者の周囲の人々がどうだ」などと、作品外の著者の態度とかパーソナリティにまで及ぶと同時に、自分の感情投入をさかんに行なう。

・言葉にあまり信頼を置かない日本社会では、能弁であることが評価されるよりも、むしろ寡黙さの中に有能さや人間の大きさを見ようとするようなところがある。

・田舎から都会に出てきた人がしばしば口にするのは、「都会の人は冷たい。田舎はもっと温かい」というセリフだ。そこには都会では人の数が圧倒的に多く、責任の分散がそこらじゅうで起こっていることが関係している。

・その場に自分しかいなければ、自分に責任がずしりと重くのしかかってくる。一方、他にも大勢の人がいると思うと、自分の責任の重みを感じにくい。それが責任の分散である。

・みんなの責任ということは、誰の責任でもないというのと、実質的には紙一重となる。

・日本のリーダーは、「仕事そのもの」の有能さで選ばれるというよりも、「調整役」としての有能さで選ばれる面がある。そこで重要なのは、自分に情報が集まってくるということだ。

・日本人の道徳は外面道徳であるという、行動の基準を自己の内面に置くのでなく、外面に置くのである。

・日本人は、「こうはなりたくない自己像」をできるかぎり回避しようといった消極的姿勢が強く、無難に過ごそうとする。

・打率は割り算だから嫌いだというのだ。だから単純に積み上げていく足し算であるヒット数にこだわると言いたいのだろう。これはまさに「加点主義の発想」といえる。ヒットは一本ずつ積み上げていける。打ち損なったからといってヒット数が減ることはない。

・人も組織も原理原則では動かない。いくら規則や制度を整えても、「それはあくまでも原則として」というセリフによって、それらは実効性が奪われ、具体的状況に応じて柔軟な対応がなされる。

・オリンパスは、目安箱のような内部通報制度を作っていた。内部通報制度というのは形だけのことで、その制度の責任者が通報を見て、それを当事者である上司や人事部に送信し、通報者の左遷が決められたのである。なんともメチャクチャな話である。規則や制度をいくら整えても、その運用は担当者しだいでどうにでもなるという事例の典型といえる。

・アメリカでは、自分の知識が増えるなど、自分のためといった理由が多かった。それに対して日本では、お母さんが喜ぶから、両親や先生を喜ばすため、あるいは両親を悲しませないためなどといった理由が目立った。日本では、勉強を頑張る主な理由が、大切な相手や身近な相手を喜ばせたいという人間関係的な要因となっているのである。

・私たち日本人が議論が苦手なのは、「スキル」の問題ではなく「心」の問題なのだ。意見が対立すると気まずい、思っていることが一緒だという溶け合った状態が心地よい、といった感受性が変わらないかぎり、議論ができるようにはならない。

・根底にある問題は、意見と人格を切り離せない感受性といってよいだろう。意見が対立すると、まるで敵対しているかのような思いに駆られてしまう。意見を否定されると、自分を否定されているような気がしてしまう。

・かつての口伝えの陰口と比べて、ネット上の陰口は広まる範囲もスピードも桁違いだ。その恐怖ゆえに、空気を乱したら大変だといった感受性を誰もが持つようになった。

・何度も繰り返される出来事は忘れやすい。たとえば、食事というのは、毎日繰り返し経験する出来事だ。昨日の夕食のメニューくらいは思い出せても、1週間前の夕食のメニューとなると、ほとんどの人は思い出せないのではないか。

・上司と部下の間の会話は、毎日何度も経験するものだ。いつ何を話したか、いつどう言われたかなど、思い出そうとしても、無数の経験が混同し、よくわからなくなる。ゆえに、「言ったはずだ―聞いてません」といった記憶のスレ違いは、そこらじゅうでみられる。

・政治家を見ても、自分の意見で動くのでなく、自分を取り囲む情勢を読みながら動いている観があり、そうなると間違いがあった場合も、自分の責任を感じるということにはなりにくい。「立場上、そのように決断せざるを得なかった」というわけだ。

・何を言うにも、「自分の考えではない」風にボソボソ読み上げる大臣。いかにも周囲の意見を代表してそう言わざるを得ないといった感じが滲み出ている。結局のところ、ものごとを動かしている責任者の顔が見えない。




「俺は聞いてない!」と怒りだす人たち (朝日新書)

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  • 作者: 榎本博明
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2012/12/13
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